全仏オープンとローラン・ギャロスの名は、切っても切り離せないものだ。
グランドスラムの中で唯一のクレイコート会場として、1928年以来歴史にその名を刻んできたローラン・ギャロスは、その長い歴史の中で多くの名勝負の舞台となってきた。だが、その誕生のストーリーは意外にも見過ごされがちだ。
ここでは、ローラン・ギャロスと全仏オープンの歴史を紹介する。
全仏オープンが『ローラン・ギャロス』と呼ばれるようになった訳
1928年にオープンしたローラン・ギャロスは、その前年デビスカップを制したフランスのテニス界が、さらなる成功を続けていくために建てられてた施設だ。
当時スタッド・フランセの社長だったエミール・ルジュールは、その会場にかつてのクラスメイトで、1918年第一次世界大戦で命を落とした英雄、ローラン・ギャロスの名前を冠することを願い出た。
ルジュールの願いは最終的に聞き届けられ、以来、この会場は今なお『スタッド・ローラン・ギャロス』として親しまれ、大会そのものも『ローラン・ギャロス』の名称で呼ばれている。
ローラン・ギャロスとは誰?
今ではテニスのグランドスラム大会の名称となっているローラン・ギャロスが、ギャロス本人にテニスの経験はほとんどなく、子供時代はラグビーとサッカーをプレーしていた少年だったという。
21歳の時に飛行機に恋したギャロスは、パイロットの道へと進み、4年後の1913年、世界初とされる地中海飛行を成功させた。
第一次世界大戦でも、ギャロスはその飛行機愛を生かし、飛行機にマシンガンを装着するという画期的なアイディアを編み出した。
こうして戦闘機のパイロットとしても成功を収めていたギャロスだったが、1915年に捕虜として捕らえられてしまう。
3年をかけて脱出に成功したものの、その間に健康状態は悪化していた。それでもギャロスは即座に戦闘に戻るという選択をした。
ギャロスの飛行機のプロペラに刻まれた『勝利は最も忍耐強いものに与えられる』という言葉を知れば、彼の決断は驚くべきものでもなかっただろう。
その後ギャロスは、1918年10月5日の戦闘中に命を落とした。だが、その革新と決意のレガシーは後々まで語り継がれることとなったわけだ。
今では、全仏オープンテニスに加え、フランス・レユニオン島の空港にも彼の名前が冠されている。
『ローラン・ギャロス』でもっと勝利をあげた選手は?
男子シングルスでは、ラファエル・ナダル(スペイン)が5年連続制覇(2010〜2014年)を含むトータル14回の全仏オープン優勝という記録を樹立している。
女子シングルスでは、クリス・エバート(アメリカ)の優勝7回が最多となっている。
※この記事はスポーティングニュース国際版の記事を翻訳し、日本向けに一部編集を加えたものとなります。翻訳・編集: 石山修二(スポーティングニュース日本版)