デビューから5年で100勝以上を挙げた昭和の大投手たち

2023-08-08
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時事通信

巨人の新エース戸郷翔征がプロ入り最初の5シーズンで通算40勝(7月27日、阪神戦)を挙げた。後半戦の力投で年10勝平均になるかも知れない。この成績にオールドファンは「ちょっと待て、昔はなあ…」。そこで怪物投手の今昔物語を。

規格外の右腕3投手

かつてプロ球界には、最初の5シーズンで100勝、というのが大投手の条件と言われていた時代があった。毎年、20勝投手が何人もいたころである。

それは今では“死語”になっている。理由は、現代は10勝エースの時代だからで、とっくに意味のない言葉になった。球史をひもとくと、すごい投手が3人いる。最初の5年で130勝以上をマークしている規格外の投手である。

デビュー後5年間で130勝を超えた投手たち

野口二郎

1939年 33勝
1940年 33勝
1941年 25勝
1942年 40勝
1943年 25勝
156勝

稲尾和久

1956年 21勝
1957年 35勝
1958年 33勝
1959年 30勝
1960年 20勝
139勝

杉浦忠

1958年 27勝
1959年 28勝
1960年 31勝
1961年 20勝
1962年 14勝
130勝

「すごい」の一言に尽きる。30勝以上が3人合わせて8度。ほぼ半数である。阪急などで活躍した野口のそれは戦前の記録だが、投げるだけでなく打つ方も相当なものだった。“二刀流の元祖”といっていい選手である。

西鉄の稲尾と南海の杉浦が同時期に投げ合った。このころ西鉄vs南海はパ・リーグのドル箱カード。両投手が先発で対したときの興奮はすさまじかった。とにかく1点を取るのに大変な投手だったから、少ない得点で勝敗が決まることが多かった。

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100勝の壁

通算400勝の金田正一は1950年(昭和25年)、高校3年の夏に中退して国鉄(現ヤクルト)に入団。17歳になったこの年、8月からデビューし8勝を挙げ、翌年から20勝を連続してマークするのだが、5年目の54年までちょうど100勝とした。

この金田がライバルとした魔球フォークボールで知られる中日の杉下茂は118勝(1949-1953年)。阪急の梶本隆夫は106勝(1954-1958年)を稼いだ。もう一人忘れられないのが巨人の城之内邦雄。デビューの1962年に20勝投手となり、1966年までの5シーズンで101勝を記録している。

彼らのあと、100勝に挑戦しながら達成できなかった好投手が何人もいる。東映の尾崎行雄は98勝(1962-1966年)に終わった。この間、4度20勝を挙げながら2年目に7勝だったのが惜しい。近鉄の鈴木啓示も1年目の1966年に10勝したあと翌年から1970年まで20勝4度だったが、1勝足りない99勝に終わった。西鉄の池永正明は20勝を3度記録しながら99勝(1965-1969年)だった。“100勝の壁”は想像以上に高かった。

通算勝利2位の350勝を持つ米田哲也は阪急時代に93勝、阪神の村山実は86勝。同じく阪神時代の江夏豊は88勝(1967-1971年)、中日の権藤博は81勝(1961-1965年)、巨人の江川卓は80勝(1979-1983年)だった。

野茂、松坂に100勝の価値

現役投手はローテーションが確立し、そのうえ投球数を制限されているからどうしてもデビューから5年で100勝は無理な話である。そんななかで素晴らしい数字を残した投手が何人もいる。

楽天・則本昂大65勝、ソフトバンク和田毅62勝、巨人・菅野智之61勝、西武・涌井秀章56勝、ヤクルト石川雅規55勝、西武・岸孝之54勝、ヤクルト小川泰弘52勝、日本ハム有原航平52勝、などである。

メジャーリーグに行った投手では、近鉄・野茂英雄78勝、西武の松坂大輔は67勝、楽天・田中将大65勝、日本ハム・ダルビッシュ有63勝、広島・前田健太57勝、近鉄・岩隈久志51勝など。今年メジャーに行った藤浪晋太郎は阪神で45勝を挙げていた。

昭和時代の投手と現役投手を比較するのは環境、条件などが異なるので難しい。無理を承知で現役の数字を1.5倍にして比較する。それでも100勝クリアは野茂(117勝)と松坂(100勝)だけである。楽天コンビの田中、則本はちょっと足りない。戸郷は目下のところ60勝の計算になる。