巨人の新エース戸郷翔征がプロ入り最初の5シーズンで通算40勝(7月27日、阪神戦)を挙げた。後半戦の力投で年10勝平均になるかも知れない。この成績にオールドファンは「ちょっと待て、昔はなあ…」。そこで怪物投手の今昔物語を。
規格外の右腕3投手
かつてプロ球界には、最初の5シーズンで100勝、というのが大投手の条件と言われていた時代があった。毎年、20勝投手が何人もいたころである。
それは今では“死語”になっている。理由は、現代は10勝エースの時代だからで、とっくに意味のない言葉になった。球史をひもとくと、すごい投手が3人いる。最初の5年で130勝以上をマークしている規格外の投手である。
デビュー後5年間で130勝を超えた投手たち
野口二郎
1939年 | 33勝 |
1940年 | 33勝 |
1941年 | 25勝 |
1942年 | 40勝 |
1943年 | 25勝 |
計 | 156勝 |
稲尾和久
1956年 | 21勝 |
1957年 | 35勝 |
1958年 | 33勝 |
1959年 | 30勝 |
1960年 | 20勝 |
計 | 139勝 |
杉浦忠
1958年 | 27勝 |
1959年 | 28勝 |
1960年 | 31勝 |
1961年 | 20勝 |
1962年 | 14勝 |
計 | 130勝 |
「すごい」の一言に尽きる。30勝以上が3人合わせて8度。ほぼ半数である。阪急などで活躍した野口のそれは戦前の記録だが、投げるだけでなく打つ方も相当なものだった。“二刀流の元祖”といっていい選手である。
西鉄の稲尾と南海の杉浦が同時期に投げ合った。このころ西鉄vs南海はパ・リーグのドル箱カード。両投手が先発で対したときの興奮はすさまじかった。とにかく1点を取るのに大変な投手だったから、少ない得点で勝敗が決まることが多かった。
100勝の壁
通算400勝の金田正一は1950年(昭和25年)、高校3年の夏に中退して国鉄(現ヤクルト)に入団。17歳になったこの年、8月からデビューし8勝を挙げ、翌年から20勝を連続してマークするのだが、5年目の54年までちょうど100勝とした。
この金田がライバルとした魔球フォークボールで知られる中日の杉下茂は118勝(1949-1953年)。阪急の梶本隆夫は106勝(1954-1958年)を稼いだ。もう一人忘れられないのが巨人の城之内邦雄。デビューの1962年に20勝投手となり、1966年までの5シーズンで101勝を記録している。
彼らのあと、100勝に挑戦しながら達成できなかった好投手が何人もいる。東映の尾崎行雄は98勝(1962-1966年)に終わった。この間、4度20勝を挙げながら2年目に7勝だったのが惜しい。近鉄の鈴木啓示も1年目の1966年に10勝したあと翌年から1970年まで20勝4度だったが、1勝足りない99勝に終わった。西鉄の池永正明は20勝を3度記録しながら99勝(1965-1969年)だった。“100勝の壁”は想像以上に高かった。
通算勝利2位の350勝を持つ米田哲也は阪急時代に93勝、阪神の村山実は86勝。同じく阪神時代の江夏豊は88勝(1967-1971年)、中日の権藤博は81勝(1961-1965年)、巨人の江川卓は80勝(1979-1983年)だった。
野茂、松坂に100勝の価値
現役投手はローテーションが確立し、そのうえ投球数を制限されているからどうしてもデビューから5年で100勝は無理な話である。そんななかで素晴らしい数字を残した投手が何人もいる。
楽天・則本昂大65勝、ソフトバンク和田毅62勝、巨人・菅野智之61勝、西武・涌井秀章56勝、ヤクルト石川雅規55勝、西武・岸孝之54勝、ヤクルト小川泰弘52勝、日本ハム有原航平52勝、などである。
メジャーリーグに行った投手では、近鉄・野茂英雄78勝、西武の松坂大輔は67勝、楽天・田中将大65勝、日本ハム・ダルビッシュ有63勝、広島・前田健太57勝、近鉄・岩隈久志51勝など。今年メジャーに行った藤浪晋太郎は阪神で45勝を挙げていた。
昭和時代の投手と現役投手を比較するのは環境、条件などが異なるので難しい。無理を承知で現役の数字を1.5倍にして比較する。それでも100勝クリアは野茂(117勝)と松坂(100勝)だけである。楽天コンビの田中、則本はちょっと足りない。戸郷は目下のところ60勝の計算になる。