ロサンゼルスのバスケットボールの歴史において、最初の重要な選手だった。オールラウンドなスキルで殿堂入りを果たし、バスケットボールマネジメントにおけるその成功はゼネラルマネージャーたちの手本となった。
ジェリー・ウェストはコートの上でもフロントオフィスにおいてもレジェンドだった。それを強調する名誉ある称号「ミスター・クラッチ」と知られた人物だ。
NBAはリーグの形成を助けた重要な貢献者を失った。6月12日(日本時間13日)、ウェストが86歳で亡くなったのだ。
NBAコミッショナーのアダム・シルバーは、声明で「ジェリーとの友情、バスケットボールや人生に関して長年にわたって彼が教えてくれた知識を大切にしてきました」と話している。
「NBAを代表し、ジェリーの妻カレンと彼のご家族、そしてNBAコミュニティの多くのご友人たちに深く哀悼の意を表します」
1960年、ミネアポリスから移転したレイカーズにドラフト全体2位で指名されて以降、ウェストのNBA人生はほとんど途切れることがなかった。その後、レイカーズ、メンフィス・グリズリーズのゼネラルマネージャーや、ゴールデンステイト・ウォリアーズ、ロサンゼルス・クリッパーズの相談役も務め、そのキャリアはリーグ史上有数の長さだ。その間、ウェストはコートとフロントオフィスでの輝かしい仕事を通じ、9つの優勝リングを手にした。
ウェストはすでに選手としても1960年オリンピックのアメリカ代表チームの一員としても殿堂入りしており、ことしは貢献者としても3回目の殿堂入りを果たす。
完ぺきを求めるウェストは自分を厳しく追い込み、自らや所属チームに高い水準を課した。そのため、ウェストが選手時代にひどいシーズンや月並みなシーズンを過ごしたことはない。GMを務めたチームの大半も、カンファレンス優勝やNBA優勝を競った。
ウェストは14年にわたってプレイし、オールスター選出14回。オールNBAチーム選出は12回だった。通算平均27得点、5.8リバウンド、6.7アシストを記録。1974年に引退した時は、通算2万5192得点と球団最多を記録していた。ただ、これらは攻撃面における功績でしかない。
ウェストはバスケットボール史上有数の守備が優れたガードとも見なされていた。例えば、NBAがスティールを集計するようになったのはウェストのラストイヤー(1973-1974シーズン)だったが、この時に1試合平均2.6スティールをマークしている。オールディフェンシブチーム選出が始まったのは、ウェストが引退する5年前の1968-1969シーズンからだったが、ウェストはこの5年でファーストチームに4回、セカンドチームに1回選出されている。
彼には有名な瞬間が2つあり、偶然にもそれぞれ敗北した時のことだ。1969年、ウェストはNBAファイナルのMVPに選ばれた。敗れたチームからのファイナルMVP選出は、史上初、そして唯一のことだ。また、ニューヨーク・ニックスに敗れた1970年のファイナルで見せたハーフコートからのショットは、NBAの歴史で最も有名なショットのひとつにあげられている。
ウェストは自伝で「あれらの敗北は私の心の傷となった。今でも私の精神に埋め込まれている傷だ。私が話していることを本当に分かり、完全に理解するには、その傷の下にある細胞組織まで見られるようでなければいけない。実際の気持ちを適切に伝えることができないからだ。そしてその傷は大きくなり続け、やがてひどい大きさになる」と記した。
2019年の『NBA.com』のインタビューで、ウェストは「本当に、本当に負けるのが嫌いだった。勝つのを楽しむ以上に負けることを嫌った。自分の中の何かだったんだ。チームが勝てなければ自分が失敗したと感じる競技者だった。だからコートに立つたびに自分のベストを尽くそうとした」と述べている。
ウェストは1938年5月28日、ウェストバージニア州の小さな町Chelyanに生まれた。父親からは虐待され、決して密な関係になかった。問題ある家庭から逃れるために、ウェストはバスケットボールの世界に飛び込んだ。しばしば雪の降る寒い屋外でもひとりでプレイした。
高校時代の1950年代、ウェストは当時まだ目新しかったジャンプショットの芸術を完ぺきなものとした。そして全米で最も誘われる選手のひとりとなる。ウェストは地元に残り、ウェストバージニア大学に進むことを選ぶ。そして大学ですぐにエリート級の活躍を見せるようになった。
ケンタッキー大学との試合中に鼻を骨折しながら、治療のために退場することを拒み、口で呼吸しながら試合を続けたこともある。大人になってから、ウェストは決して治らなかった鼻を誇示した。
ウェストは1960年のローマ・オリンピックで金メダルを獲得したアメリカ代表の一員でもある。オスカー・ロバートソンと一緒にキャプテンを務めた。
その年のNBAドラフトで、ウェストはロバートソンの次に指名された。間違いなく、NBA史上最高の全体1位と全体2位の指名だ。ウェストはすぐにオールスター選手のエルジン・ベイラーと組み、レイカーズで強力なワンツーパンチを形成した。それからの10年でこのコンビはレイカーズを何度もプレイオフ進出に導き、ロサンゼルスのスポーツ界を盛り上げた。
しかし、ウェストは不運にもタイミングに恵まれなかった。その全盛期が、偉大なるボストン・セルティックス王朝の時代だったのだ。そのため、NBAファイナルに9回進出しながら、選手時代に優勝したのは1回だけだった。ビル・ラッセルを擁したセルティックスに6回敗れている。
ポストシーズンでは輝きを放つのが普通だった。1965年のプレイオフでは平均40.6得点を記録している。セルティックスに敗れた1969年のファイナル第7戦では、足を引きずりながらもトリプルダブルを達成した(42得点、13リバウンド、12アシスト)。
ウェストは1974年に現役を引退した。NBA創設35周年、50周年、75周年の記念チームにそれぞれ選出されている。
しかし、ウェストは引退後も最初の3シーズンはコーチとして、その後はスカウトとして、そして最後はGMとして、レイカーズにとどまった。ウェストがフロントオフィスで働いた1980年代、レイカーズは5回の優勝を達成している。勝利とエンターテインメントを目指す「ショータイム」のアプローチは、興奮を巻き起こして人気を博した。
マジック・ジョンソンの突然の引退、そして当時の主力選手たちの高齢化もあり、ウェストとレイカーズはしばらくパッとしないシーズンが続いた。だがその後、ウェストはおそらく最も偉大な仕事をやってみせる。1996年夏、オーランド・マジックからフリーエージェントでシャキール・オニールを獲得し、ドラフト当日のトレードでコービー・ブライアントを手に入れたのだ。
レイカーズはすぐに輝きを取り戻し、数年で再びNBAのリーダーとなった。オニールとブライアントの王朝は3連覇を達成。ウェストはNBA史上最高の巧みなチーム編成を実現した人物として地位を確かにした。
その後も、ウェストはグリズリーズのGMとなってすぐにメンフィスのバスケットボールを救ったと称賛される。次々に立派なチームをつくり上げ、年間最優秀エグゼクティブ賞を2回受賞した。
一時引退したウェストだったが、その後ウォリアーズの相談役となり、4年間で優勝3回を達成した王朝を築くのに貢献した。ケビン・ラブ獲得のためにミネソタ・ティンバーウルブズにトレードすることなく、クレイ・トンプソンを残すようにウォリアーズを説得したのは、ウェストによる重要な決定のひとつだった。
2017年にウェストは同じ相談役としてクリッパーズに加わった。2019年夏、ウェストを擁したクリッパーズのエグゼクティブチームは、カワイ・レナードと契約し、ポール・ジョージをトレードで獲得。タイトルを競うチームとした。ウェストはオニール、ケビン・デュラント、レナードのFA契約に関わった人物なのだ。
2019年、ウェストは大統領自由勲章を授与された。
クリッパーズのオーナーであるスティーブ・バルマーは、ウェストのことを「絶対的なバスケットボールの賢人だ。賢明で忠実、そしてとても楽しい。彼といると、その競争心や意欲を感じるんだ。彼はすべてのこと、そしてすべての人を気にかけていた。7年前に会った初日から、彼はその知性と誠実さ、そして熱意で私を鼓舞してくれたんだよ」と話している。
「彼は決して立ち止まることがなかった。一緒に多くの時間を過ごしたよ。私の人生で最高の日々だった。いつも彼は耳を傾けてくれてね。常に気の利いたことを言っていた。いつも笑わされていたよ。彼のことが恋しい」
それはNBAも同じだ。選手として、そしてエグゼクティブとして、ウェストは比類なき卓越ぶりだった。バスケットボール史上最高のコンボだ。
原文:NBA icon and Hall of Famer Jerry West passes away at 86(抄訳)
翻訳:坂東実藍