ドウェイン・ケイシーHC、逆境を跳ね返してきたコーチ人生(青木崇)

2019-04-28
読了時間 約2分

2007年1月15日、ミネソタ・ティンバーウルブズが延長の末にデトロイト・ピストンズを破った後、当時ウルブズのヘッドコーチを務めていたドウェイン・ケイシー(現ピストンズ)は笑顔を見せながら筆者にこう囁いた。 

「今の契約は1年半残っているけど、これが終われば引退するつもりだ。家族と過ごす時間を優先したいからね」。 

その1週間後、ケイシーは遠征の途中で家族の元に戻っていた。20勝20敗と決して悪い成績ではなかったものの、4連敗を喫した後にウルブズから解任されたのだ。

1994年にシアトル・スーパーソニックス(現オクラホマシティ・サンダー)のアシスタントコーチになる前、ケイシーは日本でコーチの仕事をしていた。選手のリクルーティングでケンタッキー大学がNCAA規定を違反し、その中心人物と見なされた(本人は否定)ことで責任を取らされたのが原因だった。それでも、つらい経験から這い上がってNBAで仕事をする機会を手にしてきたのが、ドウェイン・ケイシーという人物なのだ。 

ケイシーが持っているコーチングへの強い愛情と熱意を知っていた筆者からすれば、50歳前後で引退してのご隠居生活などまったく想像できなかった。1年のブランクを経て、2008-09シーズンにダラス・マーベリックスのアシスタントに就任したことは、日本にやってきたときと同様、彼のコーチ人生の再構築においてプラスに働いた。

マーベリックスでディフェンス戦略の中心的な人物となったケイシーは、2011年のNBAタイトル獲得に貢献すると、トロント・ラプターズからヘッドコーチとして招聘される。そこでの7年間で5度、チームをプレイオフに導き、昨シーズンはコーチ・オブ・ザ・イヤーにも選出された。

しかし、レブロン・ジェームズ擁するクリーブランド・キャバリアーズの壁に阻まれ続けた結果、ケイシーは昨年5月にラプターズから解任されてしまう。それでも、ケンタッキー大の一件に比べれば、痛みは大きくなかった。ケイシーは、自身について「解任されることを気にしてコーチをするなんて、私の人生において一度もなかった」と語る。

「選手だってハードワークをしていれば、仕事を失うことを気にしながらプレイなどしない。試合に負けたから解任されるという心配は一切なし。トロントでもそんなことはなかったし、不安を抱えた状態でコーチなんかやらない。批判されることで思い悩むことなど決してない。30年間の経験があるからね」。

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ラプターズを去った翌月6月11日、ケイシーは低迷脱却に向けてチーム再建を図るデトロイト・ピストンズで、新たなコーチ人生をスタートさせた。 

就任1年目は好不調の波が激しく、シーズン途中のトレードで戦力が大きく変わるなど、ピストンズは一貫性のないシーズンを過ごした。なかでも、プレイオフ進出に向けて1敗もできない状況だった4月9日のメンフィス・グリズリーズ戦は、その典型と言えるような試合だった。

最大22点のリードを奪われ、ゲームプランがまったくうまくいかない。そんななかで、ケイシーは様々なラインナップを試した。最終的にアンドレ・ドラモンドをセンターにし、残る4人がガードという、練習でも使ったことのない形を使って逆転勝利を手にする。

「私のアプローチはシーズンを通じて一貫している。どのゲームも、どのポゼッションも重要だ」という軸がありながらも、変化を恐れない采配をできるコーチであることを示すものだった。 

プレイオフでは、ファーストラウンドで第1シードのミルウォーキー・バックスに4連敗を喫してシーズン終了となったが、ケイシーはピストンズの3年ぶりとなるプレイオフ進出に貢献。ゲーム4に敗れた後の記者会見に臨んだ際に声が枯れていたのは、コーチングへの強い愛情と熱意がまったく失われていないことの現れだった。

ケイシーは今、ピストンズでのチャレンジに手応えを感じている。シーズン終盤に残した次の言葉が、その証左と言っていいだろう。 

「『ローマは1日にして成らず』という言葉があるように、1年でこのチームの状況を一気に改善させることなどまったく期待していなかった。時間がかかるかもしれないけど、我々は正しい方向に進んでいる」。

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