MLBが2023年シーズンから導入している『ピッチクロック』は、投手と打者のメンタル面にどのような影響を及ぼすのか?
タンパベイ・レイズのメンタル・パフォーマンス担当責任者のジャスティン・スーア氏に本誌『スポーティングニュース』のライアン・フェイガン記者がインタビューし、春季キャンプ中の準備、現場での対応、選手たちがすべき新ルールへの対応方法、今後起こりうるケースなどについて聞いた。
目を閉じてストップウォッチで15秒計るとどうなる?
ある実験から始めてみたい。スマホを取り出して、時計アプリのストップウォッチを開いてほしい。スタートボタンに指を置いて、目を閉じて、そしてスタートボタンを押す。15秒が経過したと思った瞬間にストップボタンを押す。
結果はどうだったろうか。筆者が最初に試したときは12.58秒だった。それほど良い結果ではないことは分かるが、筆者だけがそうというわけでもないだろう。タンパベイ・レイズでメンタル・パフォーマンス担当チームの責任者を務めるジャスティン・スーア氏が電話インタビューで筆者に話してくれたのだが、春季キャンプ中でレイズの選手たちが同じ実験を試したときも似たような結果だったそうだ。
私たちにとっては、これはゲームに過ぎない。しかしメジャーリーグの選手たちにとってはそうではない。彼らは15秒か20秒の長さを「感じる」ことを春季キャンプ中に真剣に学ばなくてはならなかった。シーズンが開幕した今、その重要度はますます増している。
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MLBが今季から導入した新ルール『ピッチクロック』とは?
MLBは2023年シーズンからピッチクロックを正式に導入した。投手はランナーが塁にいないときは15秒以内、ランナーが1人でも塁にいるときは20秒以内に、次の投球動作に入らないといけない。打者はピッチクロックの残り時間が8秒になる前に打席に入り、そして投手の方向を見なくてはならない。
スーア氏や他のメンタル担当コーチにとって、この新ルールに選手たちを適応させることが春季キャンプ期間中の大きな課題となった。野球というスポーツに時間制限という概念はかつてなかったからだ。
準備ができたときに投げろ、準備ができたときに打て。そんな時代は過去のものになった。
スーア氏は「このルールができる以前、投手と打者の双方が自分なりのルーティーン、プロセス、そしてシステムを用いて、時間を稼いでいました」と語る。
「このルールによって、それができなくなりました。選手やコーチたちにとっては非常に重要な意味を持ちます。コントロールできないことにどう焦らずに対応するか、コントロールできないことをどのようにコントロールするか、その方法を探らなくてはいけませんでした」
それこそが筆者が知りたかったことだ。そこで、スーア氏にチャットで重ねて質問してみた。彼はレイズで現職に就いて5年目のシーズンを迎える。選手たちがピッチクロックに適応するために、春季キャンプ中にメンタル面ではどのようなトレーニングを行なったのか、そしてキャンプ開始から開幕日までの間にどう変化したのか、筆者が尋ねたのはその2点に集約される。なぜなら、それまで最高レベルのパフォーマンスを発揮するために行なってきたルーティーンを封じられた選手たちが、最高レベルのパフォーマンスを発揮することは容易ではないはずだからだ。
選手たちが独自のルーティーンを行う理由
選手たちがルーティーンを行うことには理由がある。ノマー・ガルシアパーラ氏は1球ごとにバッティング・グローブを叩く動作を繰り返した。他の多くの選手も自分なりのやり方があった。
ボブ・テュークスベリー氏はメジャーリーグで13年のキャリアを持つ元投手だ。三振・四死球比率でナショナル・リーグのトップになったことが2度あり、1992年にはサイヤング賞投票で3位に入った。1998年に現役引退した後、ボストン大学でスポーツ心理学とカウンセリングの修士号を取得した。現在はメジャーリーグと大学のいくつかのチームで公認メンタル・パフォーマンス担当コーチを務めている。選手とコーチの立場からメンタル面でスポーツのパフォーマンスを助ける方法を探ることを終生のテーマにしている。
筆者はテュークスベリー氏に「なぜルーティーンは大切なのですか」と質問してみた。
すると、テュークスベリー氏は「なぜなら私たちは習慣性が強い生き物であり、それが私たちを成り立たせているからです。子どもの頃からずっとそうでした。たとえば、幼稚園での昼寝のように。そうではありませんか」と言った。
「ルーティーンは何かをする前に準備することを助けてくれます。不安を減らし、自分が準備できたと感じさせます。メジャーリーグに入ってくるような選手たちでも、最初の頃はとても緊張します。どんな大物であっても、です。だからこそ、選手たちは自分が準備する方法にこだわらなくてはいけません。そのルーティーンを行うことで気持ちのコントロールができます。野球というスポーツにおいては、ボールが手やバットから離れると、その結果はもう選手たちにはコントロールできません。しかし、自分の思考や感情はコントロールできるのです」
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春季キャンプ最初の2週間で行動パターンを観察
レイズにおいては、スーア氏とメンタル担当チームは春季キャンプの最初の2週間を選手たちの行動パターンを観察することに費やした。問題を特定することなしに解決策は作れないからだ。
投手たちがマウンド上で急ぎ、打者たちが打席で急ぐ様子を観察した。すると、たとえルール違反を犯さないときでも、ピッチクロックが選手たちの脳のスペースのかなりの部分を占めることが分かった。それは何かを行うときに集中するために使われるスペースだった。
スーア氏は「そうしたデータと経験を集積した後で、それに対応するための計画を立てようじゃないか、ということになりました。最初に私たちが行なったのは、選手たちの体内時計と実際の時計を近づけることでした。15秒という時間に慣れること、そして20秒という時間に慣れることです」と言った。
冒頭のストップウォッチを用いたエクササイズはこうして生まれた。
「最初の数回は体内時計が実際の時計に比べてずっと早くなると思います。なぜなら、緊張する場面では心拍数が高まり、気持ちが焦り、呼吸が早まるからです。ですから、まず体内時計と実際の時計を近づけることから始めなくてはいけませんでした」と、スーア氏は説明する。
すべての選手に必要なわけではない。もともとマウンド上や打席内の準備が自然に素早い選手は多いからだ。しかし、そうでないレイズの選手にとっては有用なトレーニングだった。
呼吸を整えるために打席を外すことができなくなった
もうひとつの大きな要素はルーティーンの破壊である。選手たちが長い間試行錯誤を繰り返した末に確立したルーティーンはメンタル面で重要なアプローチの一部だったのだ。
スーア氏は「私たちは自分がコントロールできることに集中しました。そして呼吸は気持ちを落ち着かせるためにコントロールできるもののひとつです。気持ちが焦ると、心臓も焦ります。心臓が焦ると、呼吸が乱れます。呼吸が早まり過ぎるか、逆に無理に呼吸を止めようとしてしまうのです」と説明する。
呼吸が乱れたままで打撃や投球を行うことは望ましくない。そして呼吸の重要性はかつてないほど高まっているのだ。
「呼吸を整えるために打席を外すことができなくなりました。これは大きな変更です。かつて行なっていたルーティーンもできなくなりました」と、スーア氏は続けた。
「そうなると、投手は15秒か20秒以内で収まるルーティーンを新たに作らないといけませんし、打者はもっと短い時間に対応しなくてはいけません。ルーティーンを大幅に短くしなくてはいけないのですが、それでも何かしらをする時間はあることを忘れてはいけません」
テュークスベリー氏も適切な呼吸法を長年説いてきた。かつては選手たちにじっくり時間をかけて準備することを勧めてきた。
「急いでいるときや緊張しているときは、かえって余計なことを考えてしまうものです。ですから私たちは選手たちにゆっくり時間を取るように言います。タイムを取って、呼吸を整えるのです」と、テュークスベリー氏は言う。
「投手たちには私が行なっていた方法を伝えました。焦っていると感じたときは、スパイクの泥を落とすためにタイムを取るのです。そうやって時間を稼いで、マウンドに戻ればいいのです」
それが今ではどうなったか。テュークスベリー氏は笑いながらこう言った。
「もうこの作戦は使えませんね。そんな時間は取れなくなりました」
ピッチクロックの時代に呼吸を整える方法
テュークスベリー氏は現役引退後、ボストン・レッドソックス、ニューヨーク・ジャイアンツ、シカゴ・カブス、そしていくつかの大学チームでメンタル担当コーチを務めた。『Ninety Percent Mental』という著書もある。そのテュークスベリー氏はそれでも呼吸を整える時間はあると言う。そしてそれが準備をすることだとも――。
「ベンチで呼吸をして、気持ちを落ち着かせる。ネクストバッターズサークルで呼吸をして、気持ちを落ち着かせる。そして打席に向かうときには呼吸が整っているはずです。そうして、やるべきことに集中できるのです」
ほかにも方法がある。テュークスベリー氏が投手として用いていた方法はセルフトークだ。それも決まったフレーズで、短く呟けるものがよい。
「私が使っていたフレーズは『休日のように』でした。ブルペンで練習だけの日は気持ちが楽でしたよね。何をしてもよかったし、その結果を問われることもなかった。『休日のように』とは気楽で簡単なことを意味するのです。マウンド上で不安になるとき、これからはピッチクロックで焦るとき、このフレーズは効くかもしれません」と、テュークスベリー氏は言う。
「決まったフレーズを口ずさむことで集中力を素早く高められます。私はあまり四球を出す投手ではありませんでしたが、それは不利なカウントにならなかったからではありません。不利なカウントになったときに自分を落ち着かせる方法を知っていたからなのです」
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時が経つにつれて適応していく選手たち
スポーツに限らず、練習は大切だ。反復がモノを言う。スーア氏は春季キャンプが進むにつれて選手たちが適応していくところを目の当たりにした。
「選手たちは明らかに上達していきました。彼ら同士でアイデアやアドバイスを交換していました」と、スーア氏は振り返った。
「その通りに行わないとしても、ちょっと視点を変えるだけでも効果が出ることもあります。『好むと好まざるとにかかわらず、ルールは変わる。ならばそれに適応するしかない。今では経験もついた。やってやろうじゃないか。今でもイライラするけど、だいぶ慣れてはきた』、そんな風に思考が変わっていったのです」
しかし、スーア氏は選手たちに予期せぬ失敗をしたときのフラストレーションを予期しておくようにも言った。予期せぬ失敗は必ず起こるからだ。
スーア氏は「馬鹿げた間違いや回避できる間違いはしないようにしよう。ルール変更へのフラストレーションで判断を誤らせないようにしよう。呼吸をコントロールして、ルールへの対応をコントロールしよう。そして自分たちのベストを尽くそう」と助言している。
選手たちは予期せぬ失敗があることを知っている。それが重要な場面でも起こり得ることも。
昨年度ナショナル・リーグMVPのポール・ゴールドシュミットは「誰にとっても、今までとは違ったことになるだろう。そして今はまさにそのときだ」と話す。
「春季キャンプとレギュラーシーズンは別モノだ。今まで見たことがなかったことを見ることになる。皆が適応できたら、それに越したことはないけど。だけどこんなに大きな変更を行えば、すべてがすんなりと上手く行くとは考えられない」
パニックを避けるためにあえてルールを犯す可能性も
ピッチクロックに適応するということは、仮にルール違反を犯しても、それを大げさに考えないようにすることも含まれる。たかが1ストライクであり、たかが1ボールであると考えることだ。テュークスベリー氏は、状況によっては、たとえば重要な場面で時間がなくなったとき、投手が故意に違反するケースもあり得るだろうと言う。
「ピッチクロックに間に合わせるために焦ってパニック状態で投球するより、次の投球に集中するほうが良いこともあるでしょう。焦って投げてヒットを打たれるくらいなら、ボールを取られたほうがマシだからです」
本当にそんなことになるだろうか? テュークベリー氏はこう続けた。
「私はそう思います。そうなってほしいとも思います。私だったらそうしますね。『僕はまだ準備はできていない。もっと時間が必要だ。ここで焦って投げたりはしない。カウントが不利になっても構わない。自分がコントロールできないことに乱されて、もっと悪い結果を招くのはごめんだ』と私なら考えるでしょうね。選手たちにもそうしてほしい。重要な場面ではそれが賢明な方法になるでしょう」
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筆者は春季キャンプ中にシカゴ・カブスのデビット・ロス監督にこのアイデアについて質問してみた。
「それは十分にあり得ると思うよ。もちろん、人それぞれで違うだろうけどね。たとえば2ストライク0ボールの場面で急いで雑な球を投げてヒットやホームランを打たれるくらいなら、1ボールになることは大した話じゃないと私は思う」
「だけど、そのような場面を多くしたくはない。準備はしなくてはいけない。誤解や失敗もあるだろうけど、春季キャンプから準備を始めて、せめて5月頃には適応できていないとね。その頃には誰にとってもすべてがスムーズになっているといいのだけど」
スーア氏は冷たい海やプールに飛び込むことに例えたと言う。最初は凍えるように感じ、不快でもあるし、苛立つだろう。しかし、何回も繰り返していくうちに、それは容易に感じるようになる。レイズは開幕4連勝を飾ったが、その間のピッチクロック違反は2回だけだった。
「プールの水温が変化するわけではありません。しかし不快さに耐える能力が向上するのです」と、スーア氏は言った。
そしてもっと時間が経てば、それを不快に感じることさえなくなっていくのだ。