トニー・パーキンスは、セントルイス郊外のフランシス・ハウエル高校野球部のヘッドコーチとして23シーズンの間、素晴らしいチームを作り、選手たちと共にあらゆるトロフィーと栄誉を手に入れてきた。
彼が率いるバイキングスは、2003年、2011年、2013年および2016年に州のチャンピオンに輝いたほか、17度のカンファレンス優勝、11度の地区優勝、10度のセクション優勝、そしてMSHSAA(ミズーリ州高校運動協会)大会ベスト4に8度進出。彼の下で30人の選手が州代表選手となり、12人が全米代表選手になった。約150人が大学野球でもプレーし、8人の選手がドラフト指名された。
しかし、ひとつだけ欠けていたものがあった。
パーキンス監督下の23年間で、または1954年以降のチームの歴史のなかで、バイキングスの選手がメジャーリーガーになったことはなかったのだ。
だが先日、2週間と1日の間に、ハウエル高校の卒業生二人が立て続けてにメジャーデビューを果たした。6月17日、右投手のブレット・グレイブス(2011年卒業生)がマイアミ・マーリンズでデビュー。7月2日にはミルウォーキー・ブルワーズの新人、ネイト・オーフ(2008年卒業生)がデビューを果たした。
「私たちは多くの成功を収めてきましたが、メジャーリーガーを輩出したことはありませんでした。それは私にとって、いつも個人的な目標だったのです」とパーキンスは言った。
「ブレット(グレイブス)がメジャーに昇格して、本当に興奮しました。すぐにネイト(オーフ)もメジャーデビューして、同じ年に2人も。最高の気分ですよ」
パーキンスと彼が率いるバイキングスは、セントルイス地域で将来のメジャーリーガーたちと数多く戦ってきた。たとえば、3度のサイヤング賞を誇るマックス・シャーザーがパークウェイ・セントラル高校に在籍していた頃、バイキングスはシャーザーを破っている。
シカゴ・ホワイトソックスのレジェンド、マーク・バーリーは、地区ライバルのフランシス・ハウエル・ノース高校の投手だった。ライアン・ハワードとデイビッド・フリースは、ミズーリ川の反対側にあるラファイエット高校でプレーした。バーリーの他、ハウエル高校と同じ地区はロス・デトワイラーやティム・メルビル、トミー・レイン、スティーブ・コルヤー、コディ・アッシー、デニース・タンカズリーらを輩出している。
ハウエル高校の卒業生2人がお互いのメジャーリーグ昇格を祝福するため、顔を合わせるまでに長くはかからなかった。オーフが所属するブルワーズは7月9日から11日にかけて、マイアミに遠征した。2人の対戦はならなかったが、彼らは再会を楽しんだ。
「ブレットのことは中学時代から知っている。ヤンチャでひょろっとした遊撃手だった彼が、メジャーリーグの投手になっているとは。最高だね」とオーフはスポーティングニュースに語った。
「僕らの関係は、元チームメイトであるということ以上に深いんだ。僕らはただ話をして、全てが順調かどうか確かめ合った。メジャーリーグに上がっただけでは、全てが完璧とは言えない、そうだろう? 近くに気軽に話せる人がいると良いんだ。同じ場所で、同じ高校で、同じコーチたちに囲まれて育った彼以上に、僕のことを分かっている人はいないからね」
ネイト・オーフの2人の兄もまた、パーキンスとバイキングスの下でプレーした。長男ジャロンが2001年から2002年にかけて、そして次男ブレンダンは2005年から2006年にかけて。2006年に2年生だったネイトは、ブレンダンと共に数試合プレーする機会を得た。しかし、そのチャンスは上手くいかなかった。
「トップチームの一員としてプレーさせてもらったとき、僕は代走として5回くらい起用された。でも毎回、牽制球やキャッチャーからの送球でアウトになってしまった」とネイトは振り返った。
「僕は自分の居場所を失ってしまったんだ。彼らは『牽制でアウトにだけはなるな、わかったか?』という感じだった。僕は興奮しすぎて、リードを大きく取りすぎてしまっていたんだ。キャッチャーに刺されるのも当然だったよ。まだ僕が出る幕じゃなかったんだ」
翌2007年シーズン、彼の時代がやって来た。オーフはバイキングスの正捕手として、打率.426、出塁率.621(本当だ)、28得点、19盗塁を記録した。彼はまた、19回死球を受け、これは今でもハウエル高校の歴代記録となっている。4年生のシーズンでは、同校で歴代2位タイの打率.495、41得点、21打点、18盗塁を記録した。バイキングスは州の決勝戦まで進み、最終的には24勝4敗で準優勝した。
「ネイトは素晴らしいアスリートなんです。彼は身体が大きくなかったし、今でも大きくない。でも彼は斧のように強靭だった」とパーキンスは言った。
「彼の脚力は素晴らしい。肩も素晴らしい。値千金の男だった」
「準々決勝でパークウェイ・サウス高校を破ったとき、センターの選手がホームに送球しました。キャッチャーのネイトはホームで走者をアウトにしてから、二塁に送球してもうひとつアウトを取り、イニングを終えました。我々はその試合に勝ち、ベスト4に進出したのです。あれは今も、私が見た中で最高の守備の一つです」
(中編へ続く)