キャリア最高の勝利:ラリー・ホームズがケン・ノートンを破った、歴史的15回戦について語る

2023-03-23
読了時間 約3分
(Getty Images)

スポーティングニュースの新シリーズ「キャリア最高の勝利(My Sweetest Victory)」へ、ようこそ。現役または伝説となったボクサーたちが自らのキャリアを振り返り、自身にとって最高の勝利を得た試合について語り、実際に戦ったものにしか分からない秘密が明らかにされる。ラリー・ホームズにとっての「最大の勝利」をホームズ氏自身によって語ってもらった。

本記事は、名門誌『The Ring』出身で本誌格闘技部門副編集長トム・グレイが取材にあたった。

▶豪華景品付き! 「スポーツ番付勝利予想」に挑戦しよう

  • 対戦相手:ケン・ノートン
  • 日時、会場:1978年6月9日、ラスベガス、シーザーズパレス、スポーツパビリオン
  • 規定ラウンド:15ラウンド
  • 世界タイトル:WBC世界ヘビー級(当時のチャンピオンはノートン)
  • 戦績:ホームズ(27勝9敗、19KO)、ノートン(40勝4敗、32KO)
  • オッズ:ノートンが6/5で有利とされた
  • 結果:ホームズがスプリット判定(142-143, 143-142, 143-142)で勝利

ストーリー:ノートン vs. ホームズの1戦は、世界ヘビー級タイトル戦において、当時、約10年振りにスプリット判定で決まった試合である。

1970年代、ヘビー級アンディスピューテッド王座(当時はWBC・ WBAの2主要団体)はジョー・フレイジャー、モハメド(モハメッド)・アリ、そしてジョージ・フォアマンの間を目まぐるしく移った。しかし、レオン・スピンクスが1978年2月にアリを判定で下してその王座から引きずり下ろしたとき、WBC同級ランキング1位だったノートンとの指名試合が義務づけられた。

ここまではシンプルな話のはずだった。

だが、『ザ・グレーテスト』の異名で呼ばれたアリが政治力を発揮してスピンクスとのダイレクトリマッチを画策したことで、状況が混乱した。スピンクスはアリとの再戦を受諾したが、WBCはアリの政治力に屈しなかった。ホセ・スレイマン会長がスピンクスの王座を剥奪したのだ。アリとスピンクスは、1978年9月にWBAのタイトルのみを賭けて戦った。そして1位のノートンが正式のWBCヘビー級王者に認定された。

ややこしいと思うだろうが、それは当時の人々にとっても同じだった。

キャリア最高の勝利シリーズ:タイソン・フューリー | イベンダー・ホリフィールド  

ノートンの初防衛戦の対戦相手はホームズとなった。ペンシルベニア州イーストンで育ったホームズは、無敗の戦績を誇るテクニシャンだった。直近の試合では強打で鳴らしたアーニー・シェイバースを3-0判定で下し、その実力は認められていた。

しかし、元海兵隊員の強打者で、アリ、ジェリー・クォーリー、そしてジミー・ヤングといった強敵に勝利したこともあるノートンの方が前評判は高かった。

ホームズとノートンはともに後年、ボクシング殿堂入りをはたすことになる。この2人の対決はヘビー級ボクシング史上屈指の名試合となった。ホームズはそれまでに15ラウンドを戦ったことはなかったが、この試合を皮切りにキャリア通算で6度体験することになる。

ホームズ氏は最近スポーティングニュースに次のように語った。

「私はそうしろと言われたら20ラウンドだって戦う準備をしていたよ。世界王座決定戦を12ラウンドに縮めることには反対だ。私はいつでも戦うために鍛えていた。他にはそうでもない連中もいたけどね。私はどれだけ長くても戦うつもりだった。12ラウンドでも、15ラウンドでも、100ラウンドでもね」

「私たちがやったように戦えるファイターは、ほかにはいないよ。とくにヘビー級ではね。モハメド・アリとラリー・ホームズしかいないのさ。もっと軽い階級のボクサーにはたくさんいるけど、彼らが注目されることはない」

ノートン vs. ホームズの15回戦は、ボクシング史上でもベストバウトのひとつに数えられる名試合となった。この試合を制したホームズは、その後7年半に渡って王座に君臨した。

スポーティングニュースは最近、ホームズ氏とのインタビューに成功した。現在73歳の『イーストンの暗殺者』と呼ばれたボクサーが語るキャリア最高の勝利とは…。

ノートン対ホームズ戦はなぜ実現できたのですか

「多くの人が私には(王座奪取は)無理だと言っていた。だから、この試合は私にとって彼らを見返すチャンスだった。彼らが間違っていて、私が正しかったことを証明したかった」

「私は(シェイバースに勝ち)世界タイトルに挑戦するチャンスを手にしたことが嬉しかった。それだけがすべてだった。考えていたことはタイトルのことだけだ。金もほかのこともどうでもよかった」

「ノートンは強敵だったよ。彼に会うこともあったし、名前を聞くたびに、あの15ラウンドのことを思い出す(ノートンは2013年9月18日、70歳で死去)。左フックも右ストレートも食らった。それに耐えられたことで、私という存在ができあがったのさ」

Scroll to Continue with Content

「ケン・ノートンは強かったよ。あの身体を見たら分かるはずだ。ほとんどの人はケン・ノートンが勝つ方に賭けておいたはずだ。だからこそ、私は燃えたのだけどね」

関連記事:2023年のボクシング界で実現が期待される試合30選:フューリーvsウシク、井上尚弥vsフルトン、井岡vs中谷など

ノートン戦を前にどのような準備とスパーリングをしましたか

「トレーニング中に左腕を痛めてしまった。相手が誰だったか覚えていないけど、スパーリング中に打たれたときに筋肉が痙攣してしまったんだ」

「私のドクターだったキース・クレベンがマッサージして治してくれた。その頃は毎日のようにドクターと顔を合わしていたし、試合のときはセコンドについてもらった。試合のときはあとのことは考えずに左のパンチを使ったけどね」

「ケガにだって、勝ったのさ」  

Photo by John Iacono/ Sports Illustrated via Getty Images

ノートン戦にはどのような戦略で臨みましたか

「足を使って動き回り、ジャブを打ち、そしてタイミングを見て右のパンチを打つ作戦だった」

「ノートンはパンチを持っていた。とても強いパンチをね。それを食らいたくなかったから、動き回ることにしたのさ。私が戦った相手でノートンほどの強いパンチの持ち主はアーニー・シェーバーくらいしかいなかったな」

「試合中盤ではかなり疲れてしまった。だけど、こう考えたのさ。私が疲れているなら、ノートンだって疲れているはずだってね。止まるわけにはいかなかったし、戦うしかなかった。打たれたら打ち返す。2倍にも3倍にもね」

「リングアナウンサーが『新しい世界ヘビー級王者の誕生です』と言ったとき、すべての痛みは吹き飛んだよ」

ノートン戦は作戦通りにいきましたか

「そうだね。ケン・ノートンと戦うのはとてもきつかったけどね」

「ケン・ノートンに勝ったあとで、妻に今からシーザー・パレスのプールに飛び込んでやるって言った。それくらい嬉しかったよ。新聞記者たちまでプールに飛び込んできた。皆が私のために喜んでくれたし、素晴らしい時間だった」  

ノートンの何に驚きましたか

「打たれ強かったことだね。何回パンチを当てても、全然効いていないみたいだった。打っても、打っても、前に出てきた。どうしようかと思ったよ」

ノートン戦の最終ラウンドについて詳しく話して下さい

「私はもう限界に近かった。ノートンは本当に強いチャンピオンだったよ。そしてタイトルを守るために必死だった。私たちはリングの中央で足を止めて打ち合ったよ。ただ私の方が少しだけ多く打っただけだ。それでもノートンは倒れなかった。偉大な男だ」

「判定には不満があるけどね。あれほどの僅差だったとは思わない。私がはっきりと勝っていたはずだ。ほぼすべてのラウンドで、私のジャブは当たっていたし、右のパンチも当たっていた」

ノートンに勝ったあとはどのような気分でしたか

「それはもう、それから8年くらいずっと嬉しかったよ」

「私にとって最もきつい試合だった。だけど、どうしても私にはそれ(ノートン戦)をすることが必要だった。その頃は誰も私をリスペクトしてくれていなかったからね。私がラッキーだったとは誰にも言わせない。私のパンチには運なんてものはない。すべてが技術に裏づいていたものだ」

「私はアマチュア時代にアーニー・バトラーという人からボクシングを教わった。戦い方もジャブの打ち方も右パンチも、すべて彼に教わった。そしてモハメド・アリのスパーリング・パートナーも務めた。誰にもできることじゃないよ」

ノートン戦後、ホームズはWBCタイトルを17度防衛し勝ち続けた。そのなかにはカムバックしたモハメド・アリやレオン・スピンクスが含まれる。IBF王者にもなったが、何度かの引退と復帰を繰り返し、2002年7月のバター・ビーン戦(判定勝ち)が最後の試合となった。

原文:Larry Holmes explains why Ken Norton fight ranks highest as 'My Sweetest Victory'
翻訳:角谷剛
編集:スポーティングニュース日本版編集部

▶ボクシングを観るならDAZNで。スマホやTVでスポーツをいつでも楽しもう